アメリカにおけるトヨタのバッシングは、トヨタのお膝元に住む私としては、度を越しているとしか思えないような状態になっています。
しかし、「クルマは安全に走るもの」という意識は、消費者にとっては当たり前であることは、あの公聴会で再認識しました。
安全だと思ったクルマのアクセルペダルが戻らず(事実とすれば)事故を起こってしまったことは、
当たり前だと思っていたことが根底からくずれることになります。
クルマという便利な道具に「安全」であることが当たり前だと認識されるようになったのは、アメリカでは1960年代の後半になってからではないでしょうか、
交通事故、公害問題などクルマをめぐるさまざまな問題が社会問題化したものの、
アメリカのビックスリーは、それに対する対応策は進まない状態でした。
その現状を告発したのが、ラルフ・ネーダーでした。
彼は『どんなスピードでも自動車は危険だ』という著書の中で、クルマの欠陥を指摘し、クルマは走る凶器だと主張したのです。
おそらくそれまでは、自動車会社にも消費者にも「安全意識」というものがそれほど高いものではなかったのではないかと思います。
一般の庶民まで、A地点からB地点まで、自分で運転して、楽に移動できる(中核的便益)クルマという便利な製品であって、「安全に」というニーズはそれほどなかったのではなかったと思います。
それが消費者運動の高まりやネーダーの告発により、クローズアップされたことから、にわかに「安全」は当然、クルマという製品の一部(自動車会社が責任を持つ)モノとなったわけです。
そして、今、先進国においては、「便利」よりも「環境配慮」や「安全」が強調され、クルマに対する消費者のニーズが大きく変わったと思われます。
今回の一連のアメリカにおけるトヨタ問題は、トヨタが「安全」をないがしろにしたとは思えませんが、(報道等を読む限りでは)いかにアメリカの消費者が「安全」に敏感かということを問題発生の初動で読み違えたではないかと思います。
クルマに限らず、製品は中核的な「機能的な便利さ」以外の部分に配慮をしていく必要があります。
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